確か司馬遼太郎の小説の中の一節、続けることは始める事よりも難しい。
始めたことを継続していくのは、何かを始める事よりも何倍ものエネルギーが必要とのことだったように思う。(江戸幕府について言及であっただろうか。)
折に触れて様々な人が同様の事を口にする。
新田サドベリースクールも毎日クラスを開校して2年が経過しようとしている。
継続することによって徐々に認知の輪も広がっているのではと感じている。
「サドベリーってなんじゃ?」から「サドベリーってこんなところなのかな」と感じてくれている人の割合がちょびーっとずつ増えてきてくれているのではないか。
先日、学校関係者(学校の校長先生)とお話する機会をいただいた。
その先生は、不登校している子どもを丸ごと〇と受け止める姿勢があった。
文科省の答申でも「不登校は特別な事ではなく、誰にでも起こりうる」というような記述もあり、状況を配慮しない画一的で機械的な登校への促しは、子ども本人や保護者を追い詰めていくことにもなりかねない。
学校〇 不登校×
ではなくて、その子その子のその時その時の状況に応じた適切な選択が求められる。
その「適切な」というところが難しいところなのかもしれないが、その子どもの言い分にも耳を傾け、しっかりと受け止めたうえで子どもと共に選択していけば良いのではないか。
大人サイドの一方的な押し付けではなく、子どもも聞いてもらったという事が満足感に繋がるだろう。
今の日本の社会、圧倒的多数の子どもが小学校中学校に通う現状の中、子ども自身も学校に通うのが普通という認識はもちろんあるはずである。その中で学校に行きたくない、通いたくないと想い発信しているのだから、その言葉に大人たちは少し耳を傾けるべきである。
その校長先生は、「子どものペースで良いんです。日々その子が嬉々として何かに取り組んでいるのであればそれに越したことはありません。学校で学びたくなればいつでも受け入れられますし、学校卒業後にその子に不利益にならないように学校として十分な対応をさせてもらいます。」
「地域の子ども同士の人間関係、サドベリーでの人間関係、学校での人間関係など今子どもが置かれている様々な層の人間関係の中で子ども達は成長していきます。」
今は毎日クラス9人で過ごしているが、ではサドベリーの子どもたちは友達が少ないかとなると、僕はそうとは言い切れないと思う。
前述の校長先生の言葉の通り、色々な層の人間関係の中で友達関係を結んでいく。
大事なのは多様な層の重なり、その重なりの中で、それぞれの層の人たちが子ども達を大切に思い、育てていこうという気概だったり気持ちなのだろうと感じた。
田舎だからこそ出来るきめ細かい子育てというものがあると思う。
家庭で、学校で、地域での子育て。
サドベリーが智頭町に出来たことによって、智頭町に一つ新しい層が出来たと思ってもらえたら嬉しい。
多様な繋がりの中で子どもも大人も育まれていけたら良い。
僕たちも地道に活動を続けながら、ちょっとずつ誰かの何かの役に立つようになっていけたら幸いなことである。