2月になりましたね。
去年のこの時期もバタバタとしていたような気がしますが、そろそろ新年度を間近に感じるにあたって色々と考える時期なのかもしれません。
新田サドベリーを体験してみてやっぱり公立の学校に戻ることを決めた子ども(家庭)もあれば、新しく新田サドベリーの利用を検討する子ども(家庭)もあり。
子どもの育ちの場、教育の場に関する想いは程度の差こそあれ、この仕事をさせてもらっていると、色々と悩んでいる子どもや親と接する機会が多い。
僕自身が今持ち合わせている「答え」として、「この教育メソッド(方法)が良い」と万人にとって言えるものは無い、ということだろうか。
ただ、そこに複数の選択肢があることによって、相互に比較検討する機会は生まれる。
何においてもそうだが、こっちのここが良い、あっちのあそこが良いと、強いところもあれば弱いところもある。
それは比較することによって生まれてくる概念であって、そこにそれしかなければ、良いも悪いも、強いも弱いも無い。
僕たちは去年度から週末型の場を創ってきて、そして今年度から平日も活動の場を設けている。
活動を通じて、日々色々な経験を子どもも大人もさせてもらっているが、そのように動いていればやはりそれなりに壁や課題にぶつかる。
もちろん今のこの現状に満足はしておらず、1つ1つ感じている課題に向き合ってより良い環境をスタッフ、子どもたち、関係者で創っていけたらと思っている。
1人の保護者さんがモノが少ないのではないかと指摘された。
確かにそんな側面もあるかもしれない。
ただ、大人が全部先回りして、子どもに良かれと思う環境をどんどんと創っていくよりも、一緒の時間・空間を子どもと共有しながら、一緒に必要なものであったり、あったら良いものを考えていけたら良いなと考えている。
その為に丁寧に一緒に子どもたちと過ごしていきたいなと思うし、みんなで話し合うミーティングの時間も大切にしたい。
みんなが自分事としてサドベリーを捉えることが出来たらとても面白いことになると思う。
「みんなで創り続けていく学校」
年齢っていうものは大きい。
15歳のTmちゃんは今は週に1回土曜日来てくれているが、一生懸命自分事としてサドベリーを捉え、この場を大切に思ってくれているのを、ミーティングでもそれ以外の彼女の行動・言動からも感じる。
そういう上の世代が下の世代を引っ張っていくのだろう。
それが長いこと続けていったら文化となっていくんじゃないか。
与えられることに慣れてしまった子、指示されるのに慣れてしまった子はどこか依存的で、その自分事として捉えていくことが難しいように感じる。
1度きりの人生だから、自分の人生は自分でデザイン出来たら良いことだろうと思う。
主体的な態度というのは、いかに物事を自分事として捉えられるかだと思う。
サドベリーではそういった雰囲気をみんなで醸成していきたいと切に感じる。
仲良しまるたんboys4人組は楽しそうにこの日も一緒に遊んでいた。
一緒に遊びたがっていたKhくんが同じ空間にいるのにちょっと疎外感を感じて(仲間外れにされたように感じて)感情が爆発した場面があった。
僕がちょっと体育館に様子を見に行き、その場を離れたときだった。
その場に僕がいたら(他の大人がいたら)、そこまで感情が昂ることもことも無かったかもしれない。
ケンカや争いは必ずしも悪いことでは無いが、悲しい想いをしたり、心に傷が出来るようなケンカは嫌だ。
子どもとの関わり方、関心の寄せ方、スタッフの動き方、目の配り方、気の配り方。
まだまだ未熟で失敗もするし、難しさを感じるときもあるけれど、この仕事をさせてもらい始めて、本当に色々な気付きや学びがある。
「サドベリー」って言うけれど、きっと初期のアメリカのサドベリーバレースクールは今のその形とは違うものだろうという風に思うことがある。
「民主的に学校を運営する」という理念のもと、色々と失敗し、経験し、そしてその膨大なプロセスの上に今のサドベリーの形があるのだろうと想像する。
僕たちは、今はその初期の段階にある。
もちろん、目指すべきは今現在のアメリカのサドベリーバレースクールのような「環境」を目指したいと今でも思っている。
「世界一素敵な学校」を読み、あのイメージで今の新田サドベリーを見ると「あれ?」と違和感を感じることも大きいかと思う。
今はその目指す方向に向かって1歩1歩進んでいる、進み始めた、そんな状況なのだろう。
課題は多い。
でも1歩1歩やっていくしか道が無いということもわかっている。
Akちゃんの今読んでいる本に驚いた。
大人が読むような本。
Srちゃんのお母さんが「学校に通って、3年生になったらこんな本が読めるようになるの?」と驚いている1幕があったが、色々な3年生がいるんだと思う。
でも、すごい!