こんにちは
最近こんなことがありました。
Htくんが「8月までにまた新たな基地を作るから」
いつもササっとあるものでイメージでこしらえてしまう彼なので、8月までという割と長期な計画に驚きました。
何でも、「まずは必要な廃材を集められるだけ集めるところから始める。」だそうです。
なんだかそんな彼の基地に対する意気込みが嬉しかったです。
Snくんが最初に「社会科見学に行きたい」と言い出したのは年末の頃だったでしょうか。色々と実行委員会などを組織して先日、自分で倉敷にある三菱自動車工場にアポを取ってきました。
人気の見学先のようでしたが、今年度中に社会科見学に行けそうでみんな(大人も)驚き大喜び。
車好きなSnくん自身も大喜びだし、自分でそのようにアポをとってなんだか自信をつけたような顔つきです。
「20年後は○○の会社で働いていたい。」と彼の具体的な将来ビジョンも語ってくれるようになったのが僕には嬉しいです。
なんだかこの冬は天気の良い日が多いですね。
そんな晴れたある日のこと、Rkちゃんが前日に落としてしまった人形を拾いに行くという流れで思わず山を一山超えるという冒険に発展した日がありました。
林道を歩いていると綺麗な雑木林。
フカフカの山肌を歩いたその先に美味しい給食が待っているロッジがある。
来た道をただ帰るのではなく、この山を越えていこう。
森のようちえんから上がってきた子にとってはなんてことない斜面も、そういったことに馴染みの無いRkちゃんとSoちゃんにとっては大冒険のようで、身体全体の神経を総動員しながら一歩一歩進んで行きます。
途中KtくんやMpくんが助けながら、みんなで励まし合いながら頂上へ。
小さいころのいつまでも記憶に残っている体験。
そんな体験の1つになるんじゃないかなぁと思うくらいに神経がビンビンだったRkちゃんSoちゃん。
そして登り終えたときの「初めて山登った!」というキラキラとした瞳。
良い時間を過ごせたなぁというみんなの共通する想い。
(途中、シカと遭遇するというプレゼント付き!)
寒い日には凍って滑って遊ぶことが出来るスポット。
結構流行っています。
寒い日の朝には「ねーねー、ツルツルの所行こう。」とRkちゃん。
ワンチの糞を丁寧に穴を掘ってその上に苔を丁寧に乗せるサミーさんに興味深々な子どもたち。
糞と自然との関係を何かしら感じているのかな。
たまにお手伝いに来てくれる保護者さんから受ける刺激。
シンギングボール
近くで影響を受けたり、遠目から様子を観察してなんとなく関心を寄せていたり、全く関心を示さなかったり。
それぞれの距離感。
でも、その自由自在に自分の時間をデザイン出来るのがここの良いところなのかなと感じています。
「遊び」
というと、「とるに足らないもの」だったり「勉強の反対語」であったり、良くて「何もすることがなくてするモノ」であったりと「遊び」という言葉が持つ響きに良い感じを多くの大人は感じていないのかもしれません。
「遊んでばかりいないで勉強しなさい。」
しかし、僕は「遊び」と「学び」をそれほど分けては捉えていません。
子どもたちの様子を見ていると、いつも「遊び」の中に工夫があり、試行があり、自分なりの評価があり、よく言われるPDCA(plan-do-check-act)サイクルを実践しているようにも見えます。
自由自在な想像力の駆使で持って、誰に介入される訳でなく自分なりの研究と開発を繰り返していく。
要求されたことをミスなく卒なくこなしていく力が産業社会において要請される力とするならば、産業社会の次の「ポスト産業社会」において要請される力とは、自ら考え創造していく力ではないかと思う。
何度も自分の中で創りあげるモデルを現実社会で試行し、失敗を重ねながら精度を高めていく。安心してそのプロセスを踏ませてあげる環境を用意することも大切なことなのだろう。
今後しばらくは今の産業社会とポスト産業社会の並存という形が続いていき、それにともなって既存の教育モデルとオルタナティブな教育モデルも並存していくかと想像されるが、学校という子どもにとって社会に出る前の準備期間と捉えられる空間は、出口である「社会」のことを意識しながらあるものであってほしい。
人間の社会がどこに向かっているのか、自分としてはどこに向かっていきたいのか。子どもや孫の世代にどのようなものを伝え残していきたいのか。願わくばそんなことを少しずつ考えながら日々の生活の中にある1つ1つの選択をしていけたらと思う。
これからの社会経済環境の中で唯一本当に力を発揮出来るのは、遊びを知り、気持ちよく遊び、遊びに熟達した人。(ダニエル・グリーンバーグ)
どの業界の人でも遊び心を忘れない大人に接すると素敵だなぁと感じます。
遊び心を人生のパートナーに。
,