今さきほど「稲刈り」のブログ記事を書かせてもらった。
午後からは子どもたちは「行きたくない」と言い、僕だけが田んぼへの向かった。
子どもたちの「今やりたい」ことを積み重ねていくサドベリースクールにおいて、「自分たちの給食として食べるおコメだから」という理由があったとしても、行きたくないと言っていることに対して無理に行かせるのは違うだろうと思ったからだ。
最初「新田サドベリースクール」を始めるにあたって「給食」というものをやっていこうと決めた。給食をするのならそこに出される食べ物は生産者の顔が見えるような物語のある安心・安全な給食が良いと思った。
給食自体はアメリカのサドベリーバレースクールには無い。
だからそこはアメリカのものと異なる。
運営として給食を取り入れながらやっていくというのはそれはそれで面白い取り組みではあると思う。
ただ、それは運営側が独立して考えていくことであって、給食がある、それに派生する諸々のことについて子どもを引っ張っていくというのはサドベリー的では無いと感じている。
おコメ作りを手伝いたかったら手伝ったら良いと思うし、そうでなければ手伝わなくても良いと思っている。
自由に出来るということは、逆に言えばやると決めたことには責任感と緊張感を持って取り組むことになるということだ。それは誰かに言われたことではなく、自分でやると決めたこと、すなわち自分事として自分の前に現れる。
その自分事として取り組むことに対しての吸収力は子ども、大人を問わず素晴らしいものがある。
責任があるから真剣になる。
誰がなんと言おうと自分でやると決めた覚悟がある。
そういった機会を自分で作り積み重ねていくというのがサドベリーの大きな特徴であり、それがサドベリーの教育方法なのだろう。
僕は自分事としてサドベリーをしているし、給食をすると決めたときから自分事として「給食」に向き合っている。
コメ作りもその一環だ。
自分事としてそれに取り組んでいるから、責任感も緊張感もあるし、何より豊作に実った田んぼを見ると嬉しくなるし、稲刈り作業だってとても楽しく前向きに出来る。
でも、それが誰かに言われてする他人事作業だと「大変」「つまらない」「疲れた」ということになってくる。
誰かが学ばせたい思うことを子どもたちに学ばせるというのは結局そういうことなんだろう。
自分が学びたいと思うことを学ぶ。
「学びをどのように定義するかだが、子どもたちは遊びの中からも常に何かを学んでいる。」とはサドベリーバレースクール創設者のグリーンバーグさんの言葉だが、新田サドベリーの子どもたちも疲れることを知らずに常にイキイキと自分事と向き合っている。
その辺の大人から見たら「遊んでばかり」と映るかもしれないが、自分事として色々なものにチャレンジしていくということはかけがえのないことだと思う。
数日前の「新田サドベリー説明会」で見たアメリカのサドベリースクールの映像の中に、自分で家を建てる技術を学びたいから大工さんに家の建て方を教わっている17歳の女の子の映像があった。
自分で、大工さんと交渉して、家を建てるにあたって必要なお金は自分(たち)でアイスクリームを売るなどして資金集めしている場面もあった。
「学びを自分事に。自分の育ちに責任と緊張感を。」ということをこれからもっと意識していきたい。
多くの日本人の常識として「子どもは指導しなくては育たない。教えないと学ばない。」という意識があるかと思う。
でも、サドベリーで小さいうちから自分事として自分の育ちや学びを責任持って受け入れ、成長していくという力はきっと社会に出てからも生きてくる力となるだろう。
そんな想いを抱いた昨日の稲刈りでした。
長谷洋介(平成27年9月30日)