週末だけのサドベリークラスを始めて3年、平日もするようになって2年が経ちました。
今年度最終日を終えて1日が経ちましたが、こんなことを最近感じています。
サドベリースクールって「自分が自分であれる場所」なんだと。
自分たちで作ったルールの中で、自分が好きなように過ごせる場所。
平等に扱われ、尊重される場所。(そのように扱われるから、他者の事を尊重するという姿勢を学ぶ)
僕自身は大人のリーダーではなく、そういった空間を一緒に共有するメンバーの1人。その空間を運営していく手伝いもするからスタッフとも呼ばれるが、スタッフと呼ばれる大人がその空間を「勝手に」創ったり、ある方向に引っ張ったりということは無い。
メンバーはサドベリーという空間の構成員。
仲間に加わりたい人はメンバーになり、満足した人は去っていく。
そのタイミングも誰からも強要されることがない。
その構成員でその空間を醸成していく。
その空間そのものが生き物のようであり、常に時代と共に育ち変化していく。
最近ふと学生時代半年間過ごしたイスラエルのキブツについて思い出す。
キブツは相互扶助と平等主義に基づく「共同体(コミュニティ)」であるが、世界中からその理念に惹かれて、もしくはそれ以外のキブツの魅力に惹かれてボランティアが集まる。
それぞれの動機、タイミングによってキブツで生活し、それぞれのタイミングで去っていく(去らずにずっとキブツに住んでしまう人もいるが)
僕自身キブツで経験したことがその後の人生にとても深い意味合いを持っている気がしている。
きっと、「学校」をはじめ、ありとあらゆる空間が同じような意味合いを持ち、様々な人が様々な場所で育ち人生における意味合いみたいなものを感じながら過ごしていくのだろう。
サドベリーが何か特別ということもなく、数多くある空間(場所)のうちの1つでしかない。
それを必要とする人が無理なく手にとってもらえるようなモノにこれからますますなっていったら良いと思っている。
人に何かを伝えることは簡単ではないが、ここで過ごす1日1日がとても幸せで、僕にしてみたらここで子ども達と過ごす時間、スタッフと共に働く環境がありがたく、そんな僕含めたメンバーの満たされ感がジワジワと周りに浸透していけば良いのではないかと考えたりもする。
言葉は難しい、だからこのブログも時に難しい。
子ども達にとってみても、大人にとってみても、単純に楽しい楽なことばかりではない、時に難しさを伴う何かに直面することもあるが、その1つ1つがとても貴重なものだ。
自然と心が解け、笑顔になり、隣の人と手を繋ぐ
そんな場面に多く立ち会え嬉しい。
願わくば大事に大事にこの場所を育んでいきたい。
春休み、子どもも大人もリフレッシュしてまた4月から再開します。
この休みの時間ってのもきっととても大切な時間。
大切で愛おしいと思えるようにそれぞれが時間を過ごせたらと思います。