「不登校」・・・文部科学省の定義によれば、不登校とは「何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者(ただし、「病気」や「経済的な理由」による者を除く)」ということになり、誰にでも起こりうる状態という風に言われています。
世間一般のイメージとして(僕もかつてはそのように感じていました)「不登校」=「学校に行く元気が足りない子(学校に対して目に見える形で拒絶反応、心身の不調をきたす子)、学校生活に適応できない子」というものがあるように感じています。
僕は大学を卒業してから教育現場に身を置く中(子どもたちと接する中)で、徐々に「教育」について思い感じることが増え、変化し、「不登校」についての捉え方も変わってきました。
学校に通っていなくても「立派な」社会人として生活している人も多く目にしますし、学校での「勉強」が苦手で成績はとても悪かったけれど、自己肯定感を失わずにやはり豊かな人生を送っている人も多く目にします。
「学校」に通っていても、通っていなくても、子どもにとって(大人もそうですが)、誰かに認められて、受け入れられて(良いんだよ、あなたはあなたのままで良いんだよと言ってもらう、言ってもらっているように感じさせてもらう)、共感してもらうことによって、人は元気にその人の人生を歩んで行けるのだと感じています。
例え「学校」に通っていなかったとしても、例え「学校」での成績が芳しくなくても、頭ごなしに「けしからん」とその子の事情は置いておいて、そのようなメッセージを伝えることはマイナス面がとても大きいことだと思います。
現象としての「不登校」は「学校」に年間30日以上欠席するという基準がありますが、
「「学校」なんだかあまり気が進まないな」
「なんだか朝起きると体がだるくて「学校」も休む時がある」
「あー もう全然「学校」へいく元気がない」
結果的として通学出来なくなるのは段階を追って徐々になることもあれば、ある日ふと蓄積したものが表出してきて通学出来なくなることもあるかもしれませんが、「学校」に気が向かない気持ちとしてはグラデーションがあって、「ここの線からこっちは大丈夫だけれど、この線から向こうへ行くと要注意!」ということはきっと無くて、「「学校」は法律で行くものと決まっているから行きなさい!」の1点張りだと子どもの気持ちに無理が生じて、不調をきたしてしまうということがあるのでしょう。
子どもの気持ちを聞いて共感してあげる作業というが1つ大事な事だと感じていますし、また日本の憲法(法律)での「義務教育」は
保護者に対して「子どもに普通教育を受けさせる義務」
であって子どもには「学校に行って学ぶ権利はあっても、学校に行く事は義務ではない」ということをきちんと理解することも大事な事だろうと思います。
子どもが社会で自立的に生活していく力を養うというのは、保護者にとって(または社会にとって)の責任だと思いますが、その子にとって今何が必要かということをきちんと見極めていくことは難しいことかもしれませんが、丁寧に対応していくべきものだと思います。
「これだけしていれば(与えていれば)大丈夫」という単一的なレール(枠)ではそれにそぐわない子どももどうしてもいて、(全国に「学校」という枠にそぐわない「不登校」児童生徒(小中学生)が約12万人いて、鳥取県にも約550人いて)、その際に多様な子どもの育ちの場が社会に用意されていればそこに合う子はその場で成長していけるでしょうし、社会がそういった子どもたちにもっと寛容な態度であれたならば、救われる子どもたち(またはその保護者たち)は多数いると思うのです。
資源は無いけれど人に投資しようと国の方針をいち早く決めた北欧諸国はその成果が出始めているように感じていますし、日本の国(文科省など)の言動を観ていてもそのような動きが見えて来ていて希望を感じます。
1日1日の日常を送っている僕のような大衆にまず出来ることといったら、寛容な気持ちで子どもたち(子どもに限らず大人に対してもですが)を見守り接するということなのかもしれません。
つたない文章でどれくらい伝わるかは自信の無いところですが、それでもこういう世界に関わるものとして日々感じることを小さいながらも声を出して発信していきたいなと思います。
(文:長谷洋介)