多様であることを認め合う

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世の(多くの)大人たちは、得てして思い描く「良い」と思うものを子どもたちに与えようとする。ここにきっと他意は無くて、良かれと思っての行動であろう。そして与えられたものが良く出来る子は「良し」と評価される。

大人が設定するモノサシで評価にさらされ続ける子どもたち。

自分の「好き」とか「嫌い」とか「得意」とか「不得意」とかまず脇に置いておいて、提供される大人の「価値観」について取り組み、それの出来不出来について評価される。

新田サドベリースクールにアクセスしてくる子どもたちはそういった一方的な評価に辟易してしまっている子が一定数(多数)いる様に思う。

本当にその「価値観」は正しいのか?

これが出来たら幸せで自立した社会人になれるのか?

はたしてそういった一律な「価値」というものは存在するのか?

学校が提供する「マニュアル(カリキュラム)」に上手に乗っかれない子どもたちはどうすれば良いのか?

新田サドベリースクールにアクセスする子たちがスクールの魅力として受け取ることの1つに「あなたはどんなあなたでも大切」という寛容の空気感があると感じている。

私は私で良いんだという安心感。

例えば、勉強が苦手な私に価値は無いのかと自信を失ってしまっている子が「あなたはあなたで良い。」と失ったものを取り戻す場。

人の能力は凸凹。

それを認め合う場。

ゲームが槍玉にあげられることも多い。

しかし、ゲームもその他多くの活動と同様に認めてあげる。

ゲーム依存、アルコール依存、薬物依存・・・世の中には様々な「〇〇依存」という言葉があるが、どれも用法・用量を守り、適切に付き合えば、薬にもなり得る。

そこのリテラシー、向き合う力は、頑なに規制して縛り付けるという方法以外にもやりかたはあっても良いはずだ。

まず自身の内側から湧き出てくるエネルギーが、社会を渡り歩いていく上では欠かせない。スクールにやってきたときはそのエネルギーが小さいなと思う様な子たちもどんどんとそのエネルギーが大きくなってきている様に見受けられる。

「大人」からみたら一見「遊んでいるだけで大丈夫だろうか?」「英数国社理などの基礎学習は?」「ゲームばかりしていて大丈夫か?」と不安になってしまう気持ちは良くわかる。

それでもこれだけ社会が大きく変わっていく中で、私たちが数十年前に受けた教育と変わり映えのしない教育を子どもたちに与え続ける(しかも一律に)ので大丈夫だろうか?という懸念が拭えないのも事実としてある。

もちろん、公教育をここで否定したい訳でも、万人にサドベリー教育が良いと言いたい訳でもなく、ここで強調したいのは、教育の場の多様性を認めていくことが、社会にとっても有益であろうということだ。(セーフティネットを広く社会に設定することに繋がるとも思う。現に鳥取県だけでも統計上約800人の不登校児童生徒(小中学生)がいる中で、居場所がなく家に引きこもっている子も相当数いるのではないかと想像できる。)

社会がどこまで、どのように認めていくかというのは具体的な政策の問題になっていくと思うので、そこは時間をかけて設計していけば良いとして、大人には子どもたちを寛容な目で見守っていくという姿勢をもう少しリクエストしたい。

(日本で2017年2月に施行された教育機会確保法は1つの道標だと思う。)

子どもも大人ももっと自由に生きやすい社会を目指していきたい。

生きにくさを抱える子どもたちも多く新田サドベリースクールにアクセスしてきています。(県内外からの見学・視察などを含み)

もっとここに通ってきている子たちの事を知ってもらいたい。

もっとここから見える世界の事を知ってもらいたい。

文章・画像・動画・SNS・ウェブページ・・・色々手段はあるかと思う。

お互いを知り合い、認め合い、そして育ちあっていく。

分断ではなく共創

なかなか(今の多くの)大人の思い描く価値観のど真ん中にはいないかもしれませんが、応援してもらえる対象になるべくこれからもやっていけたら良いなと思います。

文:スタッフ 長谷洋介