子どもを「小さい」存在にしているのはだれか。

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こんにちは。今日は日ごろ思っていることを書き留めてみようと思います。

サドベリースクールでは、6歳の生徒であっても大人と対等な立場にある存在として接してもらえます。しかし、その関係性を理解あるいは実感するのが難しいと感じる大人は多いようです。

サドベリースクールに子どもを通わせている保護者の口からでさえも、「まだうちの子は小さいから…」「子どもが未熟なうちは支えてあげないと…」というような声が聞こえてくることが少なくありません。しかし、当の子ども本人は、「僕って小さいから。」「私って、まだまだ未熟だし…。」と、感じているでしょうか?

「あなたはまだ小さいんだから。」と大人に言われたときに子どもたちが感じるであろう違和感は、立場を入れ替えてみるとよくわかります。例えば大人であるあなたが誰かに、「あなたはまだ未熟だから…」「君はまだまだ若いからね。」などと言われたら、どのように感じるでしょう。相手は自分を、対等だとは思っていないのだなと感じませんか?相手のほうが何かしらの点において上だという意識を強調されているように感じませんか?立場を入れ替えて考えてみれば、単に年齢で相手を判断することに抵抗を感じる気持ちがわかるのではないでしょうか。

少し話題がそれますが…

昨日のことです。「もう、暑い!お母さんが『今日は寒いから着ていきなさい。』って言ったから一枚多く着てきたのに、全然寒くない!」と、6歳の子が上着を脱ぎすてていました。
この子はきっと、「自分がこんな風に困ったのは、お母さんのせいだ。」と感じていたことでしょう。でも私は、このようなケースについてはお母さんと子ども自身の両方に責任があると思っています。

お母さん側の責任とは。もしも相手が子どもではなく自分の友人だったら、「寒いんだから着ていきなさい。」という言い方にはならないのではないでしょうか。「今日は寒そうだから、厚着をしていったら?」と言うでしょうし、相手が「いや、これでいいんだ。」と言ったとしたら「あら、そうなの。」と引き下がったことでしょう。あるいは、「いやいや、あなたに風邪をひかれると心配で困るから、私の気持ちを汲んでくれない?」と、お願いしたかもしれません。

私は前述の親子の会話を実際に聞いていたわけではありませんので、お母さんが命令口調だったかどうかはわかりません。でももし子どもに「命令」していたとしたら、あるいは「命令されている」と感じさせていたとしたら、明らかに相手と自分を対等な立場に置いていないということになるのではないでしょうか。

では子どもの側の責任とは。自分の意に反することを「命令」されていると感じたら、従わなくてもよいのです。自分が本来持つはずの、選択の自由や心の自由を奪われていると感じ続ける必要はありません。「僕は厚着をしたくない。」と思うのだったら、きちんと気持ちを説明して納得してもらう努力をしても良かったのです。それをせずにお母さんのせいにするのは、自分の権利を放棄しているようなもの。サドベリースクールの生徒たちは、そのあたりを日々鍛えられているように思います。

子どもを「小さい」存在にしないために日々できること。それは、「あなたはどうしたいですか?」と常に常に子ども自身に確認することだと思っています。サドベリースクールの生徒は、毎日毎瞬、「あなたはどうしたい?」と問われ続けます。言葉で直接聞かれるよりも、日々を過ごしながら「さて、自分はこの場面でどうしたいか?」と自己判断しなければなりません。なぜならサドベリースクールには、「指示」や「命令」をする人がいないからです。そして嬉しいことに、そのように日々接してもらっている生徒たちは、「さとちゃん、どうしたい?」とちゃんと聞いてくれて、こちらの気持ちも理解してくれるようになるのです。それって、最高の関係ですよね!

子どもを「小さい」「未熟な」存在にするもしないも、大人の接し方ひとつ。日々気持ちを引き締めながら、過ごしていきたいと思っています。