場の持つ力

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自分は誰なんだろう

何のために生まれてきたの

大人になるってどういう事だろう

生きていくって何

日々、自分で考えたり、考えたことを発言したり、周りの人の意見に耳を傾けたり

そんなことを繰り返しながら、それぞれの人生は彩られていくものなのかもしれない。

言われたことをただこなしていくことはある意味ではとても簡単なことかもしれないが、もしかしたらつまらないことなのかもしれない。

相手の求める答えを推測して回答していくことは、時に楽しいこともあるかもしれないが、自分はこう思うのにという議論を深めて行くことの方が楽しい場合もあるかもしれない。

「僕はこう思う。」「こういう風にあなたは言うけれど、こう考えても良いんじゃない。」

がんじがらめのルールの中で、「こうあるべき」というものを押し付けられて、それが苦しくなったときに、すごく人は生き辛さを感じてしまうのではないだろうか。

サドベリースクールというものに出会った当初、私は貪るように関係する本を読み、インターネットで動画を閲覧し、サドベリー教育に触れた。

その中の1つの動画(youtube)でアメリカのサドベリーバレースクールの卒業生が登壇し、スピーチをする動画がある。

その女性は16歳でサドベリーに編入してくる。

公立の学校の教育システムに馴染まなかったが、それでも最初は一生懸命そのレールの上で頑張っていたそう。しかし中学、高校と進学するにつれて「問題児」とレッテルを貼られるような行動を繰り返すようになったと述懐する。

学校にも通わなく(通えなく)なったような時期にサドベリースクールと出会い、編入する。

両親も「こんなの学校じゃない、でも他に選択肢がないし」と娘が見つけてきた学校に娘が通う事を承服する。

彼女は「相手に尊重されたら、自分も相手を尊重する。責任を与えられたら、責任を果たそうとする。」と冒頭に述べる。

自分というものを尊重されずに、辛い想いをし「問題行動」でもって自分の存在を必死にアピールしていた子どもが、サドベリーに来てどう変わっていったかという話が続いていく。

僕がこの動画を初めて見たのはもう6~7年前になるが、この動画はとても印象に残っている。

場の持つ力が子どもを変える力を持つ。

新田サドベリースクールが今どれくらい場の力を持っているか、願わくばそのような力を持つべく1日1日を積み重ねていきたいと願い日々を過ごしているが、多様な子どもがいる中で、例えば行き場を奪われていく子どもたちがいたとして、その受け皿となるような場所が社会に多数存在すると良いと思っている。

あそこの環境では輝けなかった人が、環境を変えたら輝きを放つということは、子どもでも大人でも大いに有りうる事例だ。

「こうじゃなきゃいけない」というものを肩から降ろしたとき、「私」というものに向き合い歩みを進め始めたとき、その人の人生が彩りを持ち始めるものではないでしょうか。

多様な人がその人として輝きながら存在し合う。

自然界がそうであるように、新田サドベリースクールもそのような場であって欲しい。

子どもも大人も色々な人がいる。

でも「あの人はああいう人」「私はこういう人」とそれぞれが自信たっぷりに存在しあったら良いと思う。

ぶつかることもあるかもしれないけれど、ぶつかる中でどうあったら良いのか、お互いを尊重し合いながら調和出来たら良い。

「こうでなきゃいけない」というのは時にしんどい。

紹介した動画は英語ですが、良ければ下記です。

その他の卒業生のエピソードも面白いです。

卒業生のそれぞれが自分の人生を肯定的に生きているというのが、サドベリーバレースクールの大きな魅力の1つです。

新田サドベリースクールも平日クラスを始めて4年目になりました。

当初から通ってくれている子どもたちも大きくなってきました。

そろそろ「卒業」という単語もチラホラスクールで散見されるようになってきました。

それぞれの人生が、その人その人の色彩で彩られていきますように。

そんなことを願いながらスタッフとして関わる毎日です。

【文 長谷洋介】