「教育」の語源

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スクールで新田サドベリースクールのパンフレットの文言を見返しているときにKくんが「新田サドベリースクールは教育するところなの?」「教えるところなの?」という疑問を呈しました。

学校・スクールは教育機関という固定観念がありますが、改めてサドベリースクールは教育する(教える)ところなのかという事に話が及びました。

「教育ってそもそもどんな意味なんだろ?」→「教え育てるって書くよね。」「教え育つとも読んでいる人がいたよ。育つのは生徒だからって」

「いつ出来た言葉なの?」→「明治時代に出来た言葉みたいだね。Educationを教育と訳したんだね。」

誰が訳したんだろう?という話の流れで以下の文章をインターネットで見つけて共有しました。

以下引用(臥竜塾)

幕末から明治にかけて沢山の英語を日本語に翻訳した福沢諭吉は、「文明教育論」の中で、こんなことを言っています。
「もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違わざるもの幾何あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。」
福沢諭吉は、「教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」と述べ、さらに、「天資の発達を助けるだけなので、『発育』という表現がふさわしい」と主張していたのです。明治時代の教育というのは、1872(明治5)年の学制にみられるように、非常に画一的な上からの教育でした。それに対して、彼は、「我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えり」というように、「発育」とは、そうした明治政府の教育に対する批判でした。「教育」と訳されてしまったのは、彼が何年か外国に行っているうちのことで、福沢諭吉は帰国してそれを知って、たいそう残念がったそうです。「発育」 は学び手が主体であるのに対して、「教育」 は授ける側に力点が置かれています。「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり」というように、学校というところは、人に何かを教えるところではなく、もともと人が持っている自ら育とうとする宝を妨げないことであり、「学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし」というように、能力を見出し、それをはぐくむことが役目であるというのです。(引用終わり)

 

そんな福沢諭吉の提言を読んで、サドベリー教育は「発育」と表現する方がしっくりくるのかもねという話もしました。

そもそもEducationを語源的に探ると、「EDUCATE」の語源はラテン語の「EDUCATUS」で、「E」は「外へ」を意味する接頭語で、「DUCERE」は「導く」で、「能力を導き出す、引き出す」という意味になるそうです。

そして、蛇足かもしれませんが、Schoolを語源的に探ると、ラテン語のschola(学校)からきていて、そのラテン語schola(学校)は、ギリシア語のスコレーskhole(余暇、ひま)からできた言葉といわれています。

古代ギリシアでは、学問ができるのは生活に余裕のある貴族しかなく、その貴族たちが生活の余暇を利用して教養を身につけたから、ギリシア語「ひま」は「学問」(暇なときになされるもの)という意味になり、また、学問がなされる場所として「学校」という言葉ができたのでしょうか。

いずれにしても、時代と共に社会が求める学校や教育の果たす役割も変遷が見られると感じます。戦後に施行された「学校教育法」「教育基本法」ですが、当時の(日本)社会と、現在の(日本)社会では異なる部分が大きいですし、学校や教育の果たすべき役割も異なってきていると感じます。

新田サドベリースクールのスタッフを6年していて、「自ら自分の人生を切り開いていくこと」「自ら必要な知識・技能を積み重ねていくこと」「自分の人生を肯定的に楽しむこと」とその主体的な子どもの姿勢に触れると清々しく輝かしいものを感じます。

その子の人生のどのステージでも「どうすればいいんだろう?」と課題にぶち当たる時期は来るかと思いますが、その度に主体的にその課題に向き合い、解決していく力というのは「自分の人生を主体的に生きていく」中で培われていくものかと思います。

今現在も子どもたちは様々な環境に身を置いています。公立学校に通う子、私立学校に通う子、インターナショナルスクールに通う子、ホームスクーリングしている子、オルタナティブスクールに通う子、家に引きこもっている子、どんな環境にあろうとも、「主体性」というのは1つキーワードになってくることだと思います。「教育」なのか「発育」なのかとてもニュアンスは異なりますが、子どもたち1人ひとりの主体性を大事に意識しながらその子の持っている能力が発揮されていくようであったら良いなと思います。

文: スタッフ 長谷洋介