多様な中で自分について考える

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人数が増えてくるとその分だけ多様性が増す。

1人ひとりにストーリーがあって、そのストーリーを共有しながら「じゃあ自分はどうなんだろう」と考える。

公立学校に通っていたけれど途中から新田サドベリースクールに通い始めた子、自分のペースで公立学校に通いながら新田サドベリースクールも利用する子、学校という環境に抵抗感を感じ1年生の時から新田サドベリースクールに通っている子、新田サドベリースクールに通いながら中学・高校への進学を考えている子

家に帰れば公立学校に通って成人した親がいる。

おじいちゃん、おばあちゃん、近所のおじちゃん、おばちゃん、友達、在籍する学校の担任の先生や校長先生

色々な人とお話しながら「じゃあ自分はどうなんだろう」と考える。

自分は何が好きで嫌いで、何が得意で苦手で、どんな大人になりたくて、その為に必要なものは何で。

ただただ思考停止して「学校の先生がこう言うから、親がこう言うから」と与えられたものだけを受け取り続けることは時に苦しさを生み、ある時点で「自分は何がしたいんだろう?」という壁にぶつかりかねない。

何の為に学校があって、みんなが学校でする勉強はどんな意味があって、と分かった状態で向き合うのとそうでないのとでは「それ」に向かう姿勢が異なってくる。

大人でも「何のために」の部分が欠落すると、その行為に対するモチベーションは持続しない。

「お金の為」「生活の為」「家族の為」という側面は取り組む仕事においてはあるかと思うが、そもそもその仕事が「何の為になっているのか。どんな役割があるのか。それをしている自分に自分は満足しているのか。」そんなところもその仕事をする上では重要かと思う。

子どもも例えば今学校でしている勉強が何の為になるのか、そこに納得感があれば俄然やる気も出てくるのではないだろうか。

「学びってなんだろう?」「学校ってなんだろう?」「なんで多くの大人はゲームを嫌うんだろう?」「自分にとって必要な環境ってなんだろう?」「私はここでどう時間を過ごすのがいいのだろう?」

枠がない、与えられないことによって自分自身で様々な事に関して主体的に考える習慣が身につく。

自分の中で「学びとは」「学校とは」といったものが捉えられた時に学校に通うと学びも主体的になってくるのではないか。

アメリカのサドベリーバレースクールの著書を読んでいても「こんな大人になって、こんな仕事をしたいから、○○大学の○○学部の○○学科の○○研究室のゼミに入って勉強したい。」と目的意識をもって進学する子が多く、周りの「ただ18歳になったから周りに合わせて大学に進学した」という子を見るととても幼く感じた。という記述を目にする。

新田サドベリースクールに通うということの1つは、この自分の人生に対して主体的に取り組んでいくという姿勢を育んでいくということなんだろうと思う。

人間はいつからでも学べるし、大人になっても学び続けていかないといけないと思う。

でも学ぶっていう行為は本来はとても楽しいことだと思うから勉強嫌いにはならないで欲しいなと思う。

もし、学校に通えていないことによって強く悩み苦しんでいる子がいるとしたら、そんな自分を過度に卑下しないで欲しいなと思う。

同調圧力も過剰になるとちょっとしんどい。

子どもも大人も、もし窮屈だなと感じているのだったら、もう少し、大らかに、ノビノビと、イキイキと過ごせていけたら良いなと思います。

そんな社会が良いなと思います。

文:スタッフ 長谷洋介