じぶん

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「自分自身でいられる場所」

学校に通っていた時は「こうあるべき」という模範があって、みんなその模範を目指して立ち居ふるまっていたように感じる。便宜的にそれを「表の顔」として、その表の顔をその人と思って接しようとすると実はそれは作られた顔であることがあって戸惑う事があった。

サドベリーに来て感じたことは、「ここにいる子たちは表と裏がない。」ということだった。だから安心感があった。安心して人と接することが出来た。

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昨日10歳の女の子と話していた内容の概略。

なるほどなぁ。話を聞いていてかつて自分も同じような葛藤で悩んだ時期があったように思い出す。

「本当の自分」とか「素の自分」とか自分って何だろうって思い悩むこともあるかもしれないけれど、少なくともサドベリーにいるときはリラックスして肩ひじ張らずいられるのかもしれない。

アメリカのサドベリーに見学に行ったときも、沢山の子ども達がいて、それこそホントにみんな個性的だったけれど、1人ひとりが落ち着いていて自信を持っていたように感じた。

それぞれ性質があったり、家庭環境が異なったり、在籍年数の長短とかあるんだろうけれど、サドベリーっていう場の雰囲気が「もっと自分でいいんだよ。」「あるがままの自分はどんな感じ?」と語り掛け、そしてそれを許容してくれるような雰囲気があるのだろう。

他人の目や評価を気にし過ぎると、結局他人の人生を生きることになってしまうかもしれないが、しっかりと自分の人生を主体的に生きる人ほど、「自分」というものの整合性がとれている(裏表が少ない)のかもしれない。

それはもしかしたら今の社会では子どもも大人も難しいことなのかもしれないけれど、自分というものをしっかりと自分で大切にしてあげることは大事な事のうちの1つだと感じる。

僕も多分に漏れずに歳を重ねていき、子ども達と共通する部分が希薄になってきているのかと思うが、子どもの声に耳を傾けそれを尊重する姿勢というのは大事にしたいなと思っています。

でもそれはきっと子どもに対してだけでなく、年齢に関わらず全ての人に対して大事な姿勢なのかなとも思います。

もし今の社会が子どもの発信を十分にキャッチしていない社会なのだと仮定したならば、その子どもの発信のお手伝いをしたり、寄り添うことって意義のあることなのかなとも思います。

 

インターネットはそういった意味では大きな役割を担っていますね。

実際自分の身の回りには自分の興味関心を共有できる人が少なくてもインターネットで検索するとバーッと自分と同じような興味関心を持っている人たちと繋がることが出来る。心底自分の喜びや楽しみを共有出来る人たちをインターネットを通じて知り合う事も出来る。

コロナの状況下で子ども達の虐待や不安感を「フォートナイト」という子ども達(大人にも)に人気ゲームのキャラクターが聞き取りケアしていく仕組みを作った任意団体のニュースも面白いなーと思って読みました。

モノは何でも使い様で、上手に使ったら「薬」にもなるし使い方を誤れば「毒」にもなる。

何でもそうだと思いますが修練が大事ですね。

世にある課題は多く、そして複雑かと思いますが、面白い時代でもあるなとも思います。

新田サドベリースクールも日本のとても田舎にありますが、そんな繋がりや広がりが面白くもあります。

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(「どうしたら自分の作ったMOD(作品)を世に出す事が出来るかな?」そんな問いの答えをインターネットを検索して探す。検索するワードによって自分の欲しい情報にアクセス出来たり出来なかったり。)

文:スタッフ 長谷洋介